醜く、正直に

見通しが立たねえ

自閉症メモ 人文社会科学的研究 教育・秩序との関係

最近思っていること ASDと無職(と愛着的問題)

私はこれまでの人生の中でほんの一回、友達に誘われてアルバイトに乗り出そうと思ったことがあった。けれど、怖気づいて申し込まずに、その話は流れた。

( ˙~˙ )「どうせ俺は役立たず(?)だから。手順をスムーズにこなすことは向いてないし、それで怒られたら心理的ショックを受けて辛い。」

 

そんなビビリ野郎な自分を盲目的に「能力不足」だと思ってきたけど、より詳細に見つめるなら「非ASD社会への参加に伴う混乱」のほうが近いのではないかと思う。そんな気がするだけ。だって、実際のところ、(アルバイト等の現場で求められる)能力が不足してるかどうかは試したことないんだから。

(でも飲食店は向いてないと思う)

そして厄介なことがもう一つ。私には先述の困難に加えて、根源的な精神の問題も密接に関わってくるのだ。「私(みたいな奴でも)ここ(労働関係というカタチの場)にいてもいいのですか?」ということの答えを他者が答えてくれるという期待をして、生きているのである。

(もちろん求めている答えは「YES!」だ。)当然そんなことをアルバイトの時間に投げかけ合う機会なんてなく、単に業務上のコミュニケーションをするに過ぎない(というかどうせ叱られるだけなんだ!)と思われる。そもそもアルバイトは自己の尊厳を秤にかける場ではない。だれもそんな心理ケアなんてしてはくれない。ので、やっぱり「俺を否定するところに行きたくない」となってしまう。

これが無職に至る道のオリジナル所見です。(2024/08/15時点)

以下、論文のコピペ。

やっぱり人文学はゾクゾクするねぇ

 

20世紀初頭,児童救消運動と,精神衛生運動の両者が「一緒になって,精神科学的探究の対象となる正当な層として小児期に焦点をあて」(Nadesan, 2005,p.6)はじめた。

この時期、義務教育が形式化し、児童相談所が創設されることで、子どもに対する社会的監視の形式を豊富にし、社会の安定性を脅かす「逸脱」児へ大衆の注目がますます集まり、子どもの病理についてより繊細な理解がますます求められるようになったのである。その結果,精神衛生上の正常さと病理についての理解が変化し,精神医学的な評価と支援が必要性だと新たに認められた子どものために,地域にクリニックができたり特殊学校ができたりした。自閉症が診断カテゴリーとして出現したのは,「こうした学校やクリニックのなかで、新たな専門家たちが、より狭くなった正常性の基準には当てはまらないがしかし既存の精神医学的カテゴリーでは十分に説明できないような病理を示す子どもたちと出会った」(Nadesan, 2005,p.25)からに他ならないのである。

一方,高機能自閉症アスペルガー障害は,「20世紀中盤に起きた子育ての新しい標準を背景として」(Nadesan, 2005, p.3)出現してきた。1960年代の新しい文化的社会的条件によって「人格の心理的な調節から、知能の認知的な適応へと強調点が移り」…

 

■引用 発達心理学研究 2016,第27巻,第4号  熊谷晋一郎「自閉スペクトラム症の研究において地域性・時代性に依存する disability と個体側の impairment を区別することの重要性」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjdp/27/4/27_322/_pdf