醜く、正直に

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ボンベとは何物か

キャピタルハラスメント 労働者に向けられる資本的な価値視線

 

「キャピタルハラスメント」というのを造語してみました

(既出かどうかは、確認してません…)

 

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【序文】

おじさん二人が語っていたそうです

「部下の女性に「髪切ったの?」って言うのも、今の時代はセクハラになるんだって、難しくて仕方ないよ〜」と。

……

まあ、会社に勤務する従業員との関係を、友達と似たようなものだ。と考えているうちは、気付けない違いなんだろうなと、そのエピソードを聞いて思いました。従業員の女性はただ金稼ぐために来てるだけで、他の従業員と親密になるためにここに来ているわけではないでしょう。

【気分を台無しにするハラスメント】

その上で考えてみました。

そのおじさんらの行為の、ハラスメント性をおじさんらに伝えるためにはどういう例えをしたら伝わるのかなーと。

そうすると、ひとつのイメージが湧きました。

それは例えば、自転車趣味の会の飲み会。

メンバーの若い男性。彼に執拗に勧誘話を持ちかける、節操のないおじさん。

「きみ、うちで働かない?」「きみのその自転車への態度、労働に向けたら輝くと思うなぁ…」「もっとお金稼ぎたいでしょ?」と話しかけてくる厄介なやつに構われて、彼はどっと疲れました。ただ自転車への趣向心を分かち合える仲間が欲しかったから来ただけなのに、台無し。

 

【まずはセクハラを掘り下げてみる】

セクシャルハラスメントが、生殖的な視線なのだとすれば

○男の生殖指向は女性の「数」 だが 女の生殖指向は男性の「質」

(負の性欲≒排除に向かう性欲 の概論note(Prof.Nemuro氏)より引用)

それは子宮という生殖拠点を持っているのがあくまで女性の側だからで、誰と性的接触を持つかということが自分に返ってくる度合いが高い性別が女性の側だからであって……

…なので、誰彼かまわず男と性的接触を許容していては、質は担保できない。それ故に常に視線をカットする姿勢を続けて、良株を迎えられるようにすることが必要だと言える…かも?)

 

【労働者(男性サイド)への視線】

そして、ここからが本題

生殖視点を多分に男性から向けられ、それをカットしていくのが女性の苦労であり、安泰な条件だが

 

逆に男性は労働者としての価値を求められる存在みたいなところがあるので、それも当然苦労である

いいお嫁さんになれるかどうかというジェンダー的尺度と対になっているのは、(過去の歴史はさておき、資本主義旋風吹き荒れる僕らの世代なんかは特に)いい働き手になれるか、家計の足しをより多く稼げるか、企業にメリットをもたらせるか…という尺度で存在を見定められる。

 

【家庭を持つ人と、3つの人格】

「良妻賢母」は良妻と賢母の合成である 実は姑との戦いもあるので「良い嫁」も入るはず(noyorin_0224氏の雑引用)

 

整理すると

①対パートナー ②対子・教育 ③対職業生活

となる

 

女性がそれで、逆の男版があるとするなら

良夫賢父高給…なのかな? 

 

ただし、限りなく父の要素は薄いだろう

【養育者をこえて、親に求める資質(個人の感想😋)】

父としての役割像がまだ生きているならいいんだけど、多分求める人は少ないし、良い父に憧れる人も少ない気がする。学校でもそんな話より、テストで高得点取れ、頭に知識叩き込め、高学歴になって高収入の企業で…って狂ったように言い続けるだけだから目につかないよね。「家庭の中で男が何をすべきか」 なんて。

 

生き方で魅せる、子どもの話を遮らずに聞く

それさえできてればまあ良さそうなんだけどね。

どっちも難しいよね。

生き方なんて、人間の本質的課題過ぎて、あとから小手先で変えられるものでもないし、幼少期からの家庭での育ち方、教育課程での蓄積がもろにでるよね。当然逆も然りで、母も夫の奴隷になるようじゃあ良い方の参考にはできないよね。

経済的依存はしても、自我は自律の風格を身につけてほしいよね、女性だろうが男性だろうが。

 

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【学校とキャピタルハラスメント(人材主義教育)】

労働価値的な見方だけで人を捉えようとする態度も、同じくハラスメントであってもおかしくない。

 

現公教育はほとんどキャピタルハラスメントを地盤に敷いて構築されている。

だから

「セクハラは好意の表れなんだから素直に受け取っておきなよ」 なんていうキショ文化への辟易と同様に、

「働いて稼げたほうが幸せなんだから素直に学校に行っておきなよ」 という文化に辟易して人生に萎える子どもたち(我ら文化的不登校)の構図があり

それは未だにアンチキャピタリズムの風が吹かない限り不登校現象は拡大し続ける。

不登校や無気力が病気なんだったら仕方ないし、母親の教育の失敗なら仕方ないけど、

ホントに資本的価値の為に意気揚々と、あるいは黙々と堅実に妥協して

学校文化という魔窟で、キャピタル目線を浴び続けながら自己実現を夢見るのが、望ましい人間の在り方だと思うなら、何も言うまい。

 

まだ信じたいか(信じられるか)?

学校という入場施設が「人間の幸せのために工夫され続けてきた歴史によって維持されてきた仕組みだ」と。

 

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引用 「負の性欲」・フェミニズムネオリベラリズム(2019.12.01)

https://note.com/prof_nemuro/n/n7904b1fd0c62