祖父の葬式に、別に行きたくないというお話から考える愛着障害不安型?っぽい私の性質について。
(ていうか、多分いま本来なら双極性障害の"ウツ"ゾーンにいるんだけど、珍しく調子がいいからブログ書けてるんだよね〜)
関係に目的がないと、気まぐれで関係が無に帰すかもしれないから、怖くて、裏切られ感を感じることになるだろうから、それならはなから場に出ない…という行動に落ち着いてしまうのよ。
相手が喜んでくれるなら行く。そうじゃないなら行かない。
僕があえてリスクを犯してまで、会いたいと思う人は少ない。大抵の人は偏りのない、本音のない大衆としてのペルソナしか見せてくれないから、あんまり面白くない。常識の中で育ってきている。相手と心の繋がりも持てそうにない。(多くをはみ出しながら生きてきた僕が)自分をさらけ出しても、拒否されるかもしれない。
〜略(着地の仕方見失ったわ 笑)〜
だから地域とつながりたい。遊びに来てくれるお兄さん・お姉さんでありたい。
なんかよくわかんなくなった。寝起き頭では、うまくいかんな。おつ
あっ、自己プロデュースをしようって結論で!
(4週間後の追記)
結局な、わがままな無職って存在は、だれも面と向かって言いには来ないが、明らかに「軽視」の対象なんだよな、放っておいたら。
その匂いが昼の世界にはプンプンしてるから、それをまともに感じ取ると、自己軽視に流れてしまうわけだ。無職友だちなんていうていないわけなんだが、みんなそうなんじゃないかな、誰も期待してないし、自分も自分も信じてない。
で、それをどうひっくり返すかっちゅう話な訳だ。
自分の敵は自分。呪縛に名前をつけるところから始めよう。
世間の奴らなんかバカにしよう。どうせ俺たちのこと助けられる器なんて持ち合わせていないんだから。自分の器を育てていこう。
今日はそんな感じで