一方向メディアじゃ、やっぱ駄目ですね。伝わる表現を獲得していけない。顔色をうかがえない。
……(流石に不整理過ぎる文だったので5/22修正加筆)
先日のこと
平日に休みを取って暇になった父親とクドクドとした話をしまして。
その時のテーマが
「等身大の生活者である自分たちの思想
=私たちってどう生きれば、より幸せになるのかな」みたいなことで。
それについて1時間以上 意見を酌み交わしてたんですが
途中から僕の持論を語りだしたときに
「わからん、どうにも頭に入ってこない」
「同じところをぐるぐるしているような話しぶりで…」
と言う反応が帰ってきたりした訳なんです。
その後はなんども方向を変えたり
整理し直して語ったりして
ようやく伝わったようなそうでもないような。
…
その時はあまり気に求めなかったんですが、やっぱり傷ついてしまうんですよ。
訓練次第なのかもしれませんが
相手がいつだって
「何を言ってるのかいまいち掴めないことを言う人がいる状況」
に飽きずに付き合って
くれるとも限りませんから。
愛着障害の僕としては
「あぁ、いつ捨てられてもおかしくない。伝わりにくいかもしれない僕の中核の思想は話さないようにつとめよう…」といった、後退心理がはたらいてしまうんです。
まだ少しトラウマです。
その原理は
僕が高校生の時にツーカーな友達と話していた中でも議題に上がってまして。
聞き役にばっかり回ってしまって
自分が思っていることを話す機会が少ないから
コミュニケーションが楽しめない
(これは面白い話が聞けるぞ!予想できる "相手"&"相応の機会" のときにしか「出動」する気が起きない)
今でもそのせいで、友だち枠の人にメッセージ送れないもん…
話は戻って、伝わらない体験のトラウマについて
高校生の時にもそういうトラウマ原体験が、一番信頼してる人との間であったんです。
フリースクールのフタッフである彼とのコミュニケーションの時間は
休み時間を利用したり、90分のコマの一部を使ったりしながらでした。
話題は
僕がその1週間で感じたり考えたりしたことを
メモアプリ上に箇条書きにしたものを印刷して
それを事前に読んでもらったことに関して
彼なりの反応を聞くっていうスタイルを取ってたんです。
なかばこのブログの前身と言えなくもないか。
そういう活動を数ヶ月ほど続けたときだったか
あるとき、とある表現の節に関して
彼が「いままでボンベ君の言わんとしてることがイマイチ掴めてなかったが、この表現を見て、少し理解が深まったような気がする」と語りました。
あくまで理解状況が改善した、という報告だったのです。
が、僕はそれ以前の努力が何も成せていなかったというふうに強烈に捉えてしまい、以降その人との関係もこちらがわに積極性はなくなってしまいました。
かなしいですね。今日は終わり、ぺ
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はてブロガー氏の指摘を受けて追記
言語を変えると、人格も変わる。
オープン日本語 から分離した、オフラインマイ言語。
世間の言語カルチャーに振り回されるのに疲れたので「自分に体感に即したなオリジナルワードの定義を用いて生きよう…!そんなオレだってかっこいいだろ、たぶん!」と決断した時期が高校生の頃に確かあって、そこから回りくどい話しぶりに傾倒していったまま戻ってこれてないのかもしれない。(外の文化の人と踏み込んだ話をする機会がないため、余計に)