醜く、正直に

屋台『無限のチラシ裏』へようこそ。カラっと、スマートには到底かけそうもない投稿者のブログとなっております。お好きなものを、手に取ってご覧になってください。

ボンベとは何物か

『わたしたちはなぜ学ぶのか、何をまなぶのか』

これは私が

学生の頃、主催グループに居た外部集客イベントのタイトル(キャッチコピー?)なのです。

 

これは無限に効く言葉だという気がしてきましたよ。とある人のはてなブログを拝見したときにそんな風が吹いたんです。

まつもと (id:mazmot) さん ありがとぅ…!

ここから都合のいいところだけ切り抜いたスクラップタイム

家庭教師として中高生に歴史を教えることもあるmazmotさんから教わったこと。

歴史を扱う姿勢には外野的と当事者的の2つがあるということ。

大意? 外野の観客としてなにか言いたいとき←→歴史から何かを学ぼうとするとき(今から再度歴史を刻んでゆく当事者としての視点?)

出典はてブロ わりと後半

 

それと、今まで全く曖昧にしか捉えられてなかったことを知ることとなった社会学の基本姿勢の話

社会とは、個人の集団である。しかし、社会の行動原理は、個人の行動原理とはまったく異なる。つまり、人間によって構成されるものでありながら、人間とはまったく別個の研究の対象になる。それが社会学の立場だ。

出典はてブロ これも後半

「疑う人」はおもしろいゼ、まったく…

本題に戻る

今も学校でなにかに追われてひーこらやってる子どもたち。彼らは

 

学ぶ目的を奪われていることを知らないのです。

目的を持たずになぜ机に向かっているのでしょう。

 

元子どもたちはそれをいつしか学んだのでしょうか。

 

シミュ

目的を自分で発見して、自分なりの方法で動き始める「行為」を A とする。

 

反対に

机に座ってないと反教室行為になるし…

待ち受ける試験の結果によって、負のレッテルが剥がせなくなるし…

給与条件を底上げしたいし…

といった「行為」を B とする。

 

これは、果たして同じ「勉強」という言葉で片付けていいのでしょうか

 

 

教育とは商品ではない。ビジネスでもない。自分を尊敬し続けるための芸術行為であり、どんな学びを遊びをしていきたいか決めるのは、当事者にとっての醍醐味だ。

それを選ぶのは、ファッションセンスが仕上がってる人に話を聞くことで、自分を飾るという行為の視野を広げ、認識を深めることに繋がるように

自分が尊敬できると思った人がどんな人生をどういうメソッドのもとで生きてきたのかを調査し、自分の今を何に捧げるのかを決めることによって、自分を自分の納得できる形で(作家性の強い)「芸術作品」にすることができる。

 

自分の人生はゲームなのだという認識論がある。人生のルールは自分で決めているに過ぎないという立場だ。

 

クソ眠い。まぶた重すぎ

 

ロスト目的時代、眠いけどやってくぞー